気まずいのは誰か?

私が好んでする話題の一つに「あなたと○○さんは電車に乗ったらどこの駅まで会話持つ?」というものがある。実はこの会話自体がその人と気まずくなったときにしているというメタ構造になっているのだが、誰かと誰かの気まずさ具合を知るのが非常に面白いから、よく聞いている。自分の予想が当たることがほとんどだが、たまに外れることもあってそれも楽しい。「あ、お前と○○は意外と会話もつんや」とか「めっちゃ仲いいと思ってたけど、結構互いに気を使ってるんや」というのが分かると次からその二人の会話を見ているだけで楽しい。

この会話のいいところは、気まずさを測る指標として電車を用いていることである。これが直接的に「○○と何時間会話持つ?」という質問であれば、急に答えるのが難しくなってしまう。30分会話が持つ相手と1時間会話が持つ相手というのは具体的なイメージがわかず区別が難しいからだ。

その点電車ならイメージがわきやすい。

用いられる電車は当たり前だが住んでいるところによって変わる。大学時代は京都にいたので主に阪急(河原町発)か京阪(出町柳発)を使っていた。相手によって阪急と京阪のどちらに慣れ親しんでいるかを見極めて使い分けなければならない(ごくたまにJRを使う必要もあるかもしれない)。また特急を使うか普通を使うかも結構難しいところだ。笑いを狙いにいくなら普通電車が止まる駅を使った方がいい。例えば「○○さんと出町柳から2人で京阪電車に乗りました。どの駅まで会話もつ?」と聞いて「うーん、淀がギリギリやな」と返ってくると、「え、それはなに、K特急中書島乗換え?それとも普通電車で?」などと会話に幅が出るからだ。

私が特に好きだったのは阪急なら西院より河原町寄り、京阪なら七条より出町柳寄りの答えが返ってきて、「まだ地上にも出てへんやん!」と言うことだった。単にこれが言いたいがために、あえて気まずそうな組み合わせを見つけて「お前と○○さんが阪急河原町から電車に乗ったらどこまで会話もつ?」と聞いていたような気がする。「烏丸」と返ってきたら「めっちゃ気まずいな!でも俺も○○さんとは大宮が限界や。地上に出られへん!」と狂喜乱舞である。

関東だと電車が一気に増えてしまい、共通の感覚を持って話せる電車が少なくなる。山手線だとグルグル回ってしまうので長時間のイメージがわかないからかあまり盛り上がらない。やはり直線的に伸びる電車がいい。会社は田園都市線沿いに住んでいる人が多かったので「渋谷から中央林間に向かってどこまでもちますか?」というのをよく聞いていた。「基本三茶が限界だけど、調子よければ用賀までいけます」とか「中央林間まで行って南栗橋まで戻れます」とか。「おー、それは非常に仲がいいですね」など。悪趣味な質問なのは百も承知だが、私が面白いのだから仕方ない。

ただ気まずさの感覚は人によって大きく違うことも多い。私が気まずいと思っていても向こうは全然思っていないというようなこともある。また逆もある。中でも私が一番他人と「気まずい」という認識のズレを感じるのは、「気まずいのは他人だけか?」という問題を考えるときである。

私も世の中には気まずい人がたくさんいるが、一番気まずいのは間違いなく自分である。そう言っても意味の分からない人もいるかもしれない。私と私が気まずいのだ。

なんか自分と向かい合わなければならないというような感覚。自分が自分と対話しなければならないというような感覚。非常に気まずい。

一人で何もすることがないとき、どういうことを感じるだろうか?よく聞くのは「寂しい」とか「暇だ」とかいった感覚である。しかし私が感じるのは「気まずい」という感覚だ。特に一人で考えることもなくボーっとしていると自分との気まずさを感じて仕方ない。だがこれはテレビや本などがあれば当面は解消される。だから私は一人で家でジッとテレビやネットを見ていても平気である。寂しいという感情はほとんどなく、気まずささえ耐えられれば問題ないからだ。大体こちらに来る前の休日はそうやって過ごしてきた。

ところが本やテレビ、ネットなしで過ごさなければならない時間がある。
子供のときに一番嫌だったのはまず風呂だ。まだ身体や髪を洗っているときはいいのだが、湯船につかっているときは自分と気まずくて仕方ない。熱いからではない。気まずすぎて何分もつかっていられないからだ。中学生くらいのときに、ゲームボーイやらマンガやらを持ち込めば気まずくないということに気がつき、それ以降は1時間ほど入っていても問題ない。三国志なんか読み出そうものなら2時間ほど湯船につかっていることもある。

高校のときは自転車の登下校が非常に気まずかった。自転車に乗っているので本を読むこともできないし、お金が大してあるわけでもないのでウォークマンなども持っていなかった。となると見慣れた景色の中を毎日毎日行き来するだけである。帰りは部活の友達と帰るからまだいいが、行きが本当に嫌だった。私は高校まで自転車で15分くらいだったのだが、この15分が毎日驚異的に気まずいのだ。

あと最近気まずかったのは座禅だ。去年の11月に何を思ったか世田谷の龍雲寺というところで数人の友達と座禅にチャレンジした。朝6時半から9時までひたすら座っているだけなのだが、「寒い」「眠い」という天敵のほかにも「気まずい」というのが現れ、本当に辛かった。心を無にしろと言われれば言われるほど、無にならず、自分との気まずさだけが膨らんでいく。何も考えるな、と言われても、何か考えようとしてしまう。にもかかわらず、何も考えるべきテーマの見当たらないので、気まずさ爆発である。誰かといて話題を必死になって探しているときと全く同じ状況なのだ。

そういう私の感覚からするとオーストラリア人の動きは全く理解できない。

こちらでは週末の朝早くからカフェで一人でコーヒーを飲んでいる人がいる。別に新聞を読んだりするわけでもなく、ボーっと一人でコーヒーを飲んでいるのだ。「何がおもろいねん」と思って、知り合いのオーストラリア人に聞いてみたところ「週末お気に入りのカフェでコーヒーを飲みながらゆったり過ごすなんて贅沢で最高じゃないか」と言う。「一人で何を考えんの?」と聞くと「何も考えないよ。何もしないためにカフェにいるんだから」と言う。「なら、家にいろよ」と思うのだが、それとはまたちょっと違うようだ。

似たような発想は日本でも「南の島でも行って何にも考えずのんびりしたいなあ」というような表現で見られる。「わざわざ海外まで行ってのんびりしてどうすんだ、観光地回れ、観光地」と思う。だいたい世界で一番寝れる場所は自分の家なのだ。誰かに会うとかそういう目的があれば別だが、ただ単にのんびりしたけりゃ家から出なければいいのだ。

だいたい私がカフェやら喫茶店やらに行くのは「疲れて休むため」か「誰かと話すため」という二つの目的しか考えられない。つまり「しばし休憩するために飲み物代を払って場所を借りる」という使用方法か「誰かと話をするために飲み物代を払って場所を借りる」という使用方法しか思い浮かばない。「疲れている」または「誰かといる」というのがカフェやら喫茶店やらに行くための必要条件なのだ。

そう考えると「疲れてない」かつ「一人である」という条件下のもと、カフェに行くオーストラリア人の感覚は私には分からない。そんな状況下で新聞や本も持たずカフェに行ってしまうと自分と気まずくて息がつまりそうにならないのだろうか。あるいは意外にもオーストラリア人はほとんど禅を極めているのだろうか。