センスのいいおみやげはあるか?

「両雄並び立たず」という言葉がある。優れた英雄が二人現われればどちらかが必ず倒れるということだ。まず真っ先に思い浮かぶ代表的な例は項羽と劉邦だろう。日本でも源頼朝源義経足利尊氏新田義貞徳川家康石田三成などが思い当たる。

近現代に入っても小川直也橋本真也高田延彦ヒクソン・グレイシー大仁田厚ミスター・ポーゴなど二人の英雄が両立した試しはない。

二つのものが相容れないのは人間だけではない。言葉もそうである。

例えば「ジャズ」と「漬物」はどうも相性がよくない。両者が共存しているイメージが一切湧かないのだ。

こういうのはたくさんある。「おかん」と「複素数」も合わないし、「金融危機」と「群馬」も合わない。「競艇」と「ふわモテヘア」というのも合わない。「オーストラリア」と「侘び寂び」も全然合わない。

ただ今回私が問題にしたいのは「センス」と「おみやげ」である。

みうらじゅんが誰がこんなものを買うわけ?と思わせる土産を「いやげもの」と呼んでいるが、そもそもお土産は90%以上「いやげもの」ではないだろうか?センスのいいお土産などほとんどもらったことがない。

「スイーツ」という言葉が一部で「スイーツ(笑)」に変化したように、「お土産」も今度から「お土産(苦笑)」と変えた方がいいかもしれない。それくらい微妙な立ち位置にある。

だから結局日本では無難に食べ物を選んでしまう。各地の名産の食べ物(お菓子の詰め合わせみたいなの)であればよほど変なものでない限り嫌がられはしないだろう。

日本は食べ物のバラエティが豊富だ。ラーメンという一種類の食べ物だけでも、北海道の味噌ラーメン、九州のトンコツラーメン、喜多方ラーメン、和歌山ラーメン、佐野ラーメン、尾道ラーメン、徳島ラーメン、京都ラーメン・・・ときりがない。北海道なんかさらに札幌ラーメン、旭川ラーメン函館ラーメンと細分化できる。さらにラーメン以外の食べ物ももちろん地域差がある。だから旅行に行く大きな楽しみの一つは食事になるのだ。

しかしオーストラリアはこの点が日本と違う。各地の名産の食べ物というのがほとんどないのだ。シドニーにいてもメルボルンにいてもブリスベンにいてもゴールドコーストにいてもパースにいても基本的に食べられるものは大きく変わらない。ステーキかシーフードかサンドイッチかそんなもんだ(ただ誤解ないように言うと美味しい)。

だから旅行の際に食事を楽しみにすることがほとんどない。日本人の感覚だと「国内旅行−食事−温泉=無」という式が成り立っているので、食事も温泉もなければ何をするのだと思うが、こちらではビーチでのんびりしたり山奥でキャンプをしたりといった自然を楽しむことが主流なのだ。

だからオーストラリアでは食べ物をお土産にするのは適していない。

また食べ物以外もあまり地域差を感じられない。日本では皿の焼き方一つをとっても信楽焼やら備前焼やら有田焼やら言っているのとは状況が違う。どこの街もそんなに変わらない。(こっちで地域差を感じるのはビールくらい。ビールはタスマニアのものとか西オーストラリアのものとか色々ある。)

そうなるとどこかに行ったときに魅力的なお土産が見当たらない。だからオーストラリアの場合国内旅行とお土産が結びつかない。あまりどこかに行ったときにお土産を渡す風習もなさそうだ。

では海外から来た場合はどうだろうか。お土産屋専門店に行っていいものを探してみたところ、結構いいものが売っていたので紹介したい。


このTシャツはどうだろう。ちなみにこのデザインのTシャツはシドニーに行けば「I LOVE SYDNEY」になるし、パースに行けば「I LOVE PERTH」になるという全く地元特有感を感じられない一枚になっている。こういうのが売っている割りには街で一番見かけるのは「I LOVE NY」だからさらに訳が分からない。寝巻きにするには最適な一枚。



オーストラリア最大のスターといえばニコールキッドマンでもカイリー・ミノーグでもなく、コアラとカンガルーであるのは間違いない。オーストラリアの観光産業の半分はこの愛らしい二つの動物に依存していると言っても過言ではない。だからぬいぐるみのようなものだけではなくマグカップやらキーホルダーやらバッグやら色々なところに顔を出してくる。私もこちらに来るまでは「何がコアラじゃ。俺のほうが可愛いわ」くらいに思っていたが、生で見たところ完敗を実感した。残念ながらおそらく私より可愛い。あの可愛さに勝てるのは豆柴と長澤まさみくらいしか思いつかない。
そんな可愛いコアラをチョコレートとして頬張れるなんてそうそうあることではない。モグモグしていると口の中で溶けていくコアラを堪能できるオーストラリアらしさを満喫できるお菓子。



国旗物も多い。非常にシンプルにオーストラリアを訴えかけてくる。世の中に何百種類もマウスパッドがあっただろうに、なぜ豪州国旗のものを買ったの?と聞かれて答えに窮すること必至。ただ「私は海外旅行でオーストラリアに行ったんですよ!断じて他の国ではありません!」と周囲に訴えかける嫌味なほどのアピール感は何者にも代え難い。



私が見た中で一番欲しかったのはこのオージー美女カレンダーである。中は毎月違う水着のオージー美女がこちらを見て微笑んでいる。ちなみに3月がよかった。毎月20日くらいになれば飽きてくることが予想されるので1日までは我慢の日々が続く。同じく美男子版もあるので女子や男子なのに男子好きという人にも楽しむことが出来るオールマイティなカレンダーである。

どうやらオーストラリアでは「お土産」と「センス」という言葉が奇跡的に両立されているようだ。

トイレから孤独を解消できるか?

身近でありながらも最も謎に包まれた場所はトイレだろう。一番プライベートな空間といえる。

風呂などもプライベートな空間であるが、日本には銭湯というものがあるので、人の入浴シーンを見るのはそれほど難しいことではない。もちろん異性の入浴シーンというのは見たことないので知らないが、おそらく男性も女性もそれほど入浴スタイルは大きく変わらないと思う(何か特殊なことがあるのであれば教えてください)。

しかしトイレは違う。人がう○こをしているところを見たことがあるだろうか?よほど特殊な場合を除いてないのではないだろうか。私は父親が扉を開けたままう○こをしていたのをみたことはあるのと、何回か友人のう○こシーンを見たことがあるが、基本的に全て特殊要因下におけるハプニング的なこと(我慢できずに野外でもらすとか)である。

だから大人になっても自分のトイレのやり方が世の中と一致しているかどうかは全然分からない。ひょっとしたら自分以外は全然違うやり方をしているかもしれないのだ。

これほど人生は孤独だと思わされるエピソードはない。自分はたくさんの人に囲まれて生活をしていて、孤独を感じることなどほとんどない。心が通じ合っていると思える友人、家族、恋人がいる人もいるだろう。しかし、実態はどうだろうか。トイレのやり方一つをとっても誰とも共有できていないのだ。トイレのやり方も共有できていないのに心のように抽象度の高いものを他者と共有できるものだろうか。明らかに難しいと言わざるを得ない。つまり我々は生まれてから死ぬまで孤独なままなのだ。結局他者のことなど何一つ分からないまま死んでいくのだ。宇宙で一人ぼっちなのだ。

しかし、この事態はあまりにもさびしい。地上に生を受けて誰とも何も共有せずに死んでいく。それに対して少しでも反旗を翻したい。他者と何かを共有したい。私は普段そんなセンチメンタルなことは一切思わないタイプなのだが、オーストラリアで孤独な生活を送っているためか、そんならしくないことを考えたのかもしれない。

そこで恥ずかしながら自分のトイレスタイルを公開することにした。しかし公開すると言ってもダラダラトイレの順番を書いても仕方ない。ポイントを絞りたいと思う。

私は経験上男子のトイレには以下の5つの問題があるような気がする。

  1. 小をするときに座ってやるか立ってやるか
  2. 大をしたとき前から拭くか後ろから拭くか
  3. 大を拭くとき、紙は畳むかくしゃくしゃか
  4. トイレが終わったあと手を洗うか
  5. 服を脱ぐかどうか

この5つだけでも単純に考えても2の5乗で32通りのトイレ方法があるということになる。他にもポイントがあるだろうから、世の中には無数のトイレの方法があるということになる。

そこでまずそれぞれの論点について考えてみたい。

最初の「小をするときに座ってやるか立ってやるか」というのは最近色々なところで取り上げられている熱いトピックだ。男は「立ッション」というのがここ数十年の日本の常識だった。しかし最近勢力を拡大してきているのが、俗に「すわり小便」とか「座りション」と言われるスタイルである。便座の汚れを防げるし、肉体的にも座っているほうが楽だから、という理由でこのスタイルを取る男性が増えているらしい。何を隠そう私も積極推進派の一人である。誰も知りたくないと思うが勝手に話すと、私は中学生ぐらいのときからこのスタイルを取っている。もはやベテランの域に達していると言ってもいいだろう。先駆者の一人と言っても過言ではない。そもそものきっかけはやはり小便中の自分との気まずさに耐えかねて、本を持ち込んだことがきっかけである。しかし本を読むためには座らなければならない。それがやみつきになり、その後はよほど緊急のときを除いて座ってやるようにしている。今のところ立ってやるメリットが一つも思い浮かばないのだが、まだまだこのスタイルは普及しているとは言いがたく座ってやるのは少数派のようだ。

続いて「大をしたとき前から拭くか後ろから拭くか」という問題がある。私は正直言って、こんな問題が存在するとは一切考えていなかった。私は後ろから拭くのだが、前から拭く人が存在するとは夢にも思わなかったからだ。ところが大学時代に孤独に耐えかねて何気なく友人にトイレの話をしたときに、前から拭く派が一定数存在することが分かって非常に驚いた。私が後ろから拭く理由は単純明快である。前から拭くと手が男性器に当たってしまう可能性があるからだ。大体、う○こをするときは、小便も一緒にすることが多い。ということは手がそこに当たってしまうと小便がついてしまうことになりかねない。後ろから拭けばそういったリスクは一切ない。何の気兼ねもなく「拭く」という行為に集中することが出来る。なぜ前から拭く派が存在しているのだろう。前から拭くメリットは何かあるのだろうか。私には一つも思い浮かばない。前から拭くというスタイルの人はなぜこんなリスクの高い方法を取るのか教えて欲しい。

大を拭くとき、紙は畳むかくしゃくしゃか。これも非常に難しい問題である。私の家では母親と私がくしゃくしゃ派、父親と弟が畳む派だった。家族を二分していた問題である。私の両親は子供のころからこの点でずっと喧嘩をしており、最終的に離婚したのだが、原因はこの点で合意できなかったからといっても過言ではない。母親の最後の言葉は「紙はくしゃくしゃにしても家族はくしゃくしゃにしたくなかった」だった。私はくしゃくしゃの方が厚みが大きくなると考えいてる。厚みを極力大きくすることでう○こが指についてしまうというリスクを最小限に留める効果があるのではないかと思っている。(上でも述べたようにトイレにおいてリスクを管理するというのは一番基本となる重要な考え方である。)きちんと畳むという弟に理由を聞いてみたところ、「くしゃくしゃだと紙に穴が開いて手につきそう」と言っていたが、これは全く事情を知らない素人の意見である。実はくしゃくしゃにすることで少ない枚数でも厚みを作ることができるのだ。リスク管理という観点からはくしゃくしゃにするという方が圧倒的に有利なことが分かるだろう。エコの観点からも同じことが言える。地球温暖化などの環境問題が騒がれる昨今、くしゃくしゃに畳んで少ない枚数で処理を行うという行為が求められているのではないだろうか。未来の子供たちのためにも今求められているのはくしゃくしゃ派である。

そして「トイレが終わったあと手を洗うか」という問題。女子トイレの現状は全く分からないが、男子トイレでは手を洗う人は半数以下なのではないだろうか。女子の皆さんは全く知らないだろうが、駅の便所などでは中年以上の男性はほとんど手を洗わない。「手を洗ったら負け」という空気すら流れている。洗ったとしても手を水に浸す程度でガシャガシャしているわけではない。私も子供の頃は全く洗わなかったが、中学生くらいから段々周囲の視線が気になりはじめて手を洗うようになってきた。そもそも以前は「手を洗う」という行為が面倒だったため、トイレに限らず外出から帰って来ても「手を洗う」ということはしなかった。私は体が比較的丈夫なのは幼少のころにどれだけ手で泥をつかんでも洗わなかったことがいい結果を生んだのではないかと思っている。免疫が強くなったということだ。このサイトを見る限り「手を洗わない」ということに大して女子は大きな抵抗があるようだし(ベストアンサーに選ばれた回答は秀逸だが、なぜこの回答が選ばれたのだろう)、私も今は洗うようにしているが、実際のところどうなのだろう。案外女子トイレでも手を洗わない人はいないのだろうか。

最後は「服を脱ぐかどうか」という問題。たまに全裸にならないとトイレが出来ないという謎のスタイルを見かけることがある。服を脱がないと落ち着かないらしいのだ。私はこういうタイプの人に会ったことがないので深く理由を聞いたことがない。ちなみに私は服は脱がない。これについては選択肢の中に入ったこともない。

そこでもっぱら興味がわくのはオーストラリアはどうなのだという点である。

まず容易に確認できるのは「手を洗うかどうか」である。これは日本と同じ状況のような気がする。おっさんの半分は洗わないのではないだろうか。若者は比較的洗う。これは鏡で髪の毛をいじったりするということを影響しているだろう。

しかし、これだけ前振りをしておいてなんだが、他の点については全く共有できていない。孤独を避けるためにも聞いてみようと思うのだが、変態だと思われたらどうしようという恐怖から聞くに聞けない。

英語の会話が主流のときは基本的に黙っていることが多いので、突然口を開いて「・・・。ところで、トイレでう○こをしたとき、紙を畳みますか?」と聞こうものなら、日本人のイメージを落とすことにもなりかねない。「孤独がいやだから聞いたんです」と理由を説明しても納得してもらえそうにはない。パンツのほうが聞きやすかった。

最近はこのことが気になって、いつもトイレの話題を出すタイミングをうかがっているのだが、なかなか訪れない。というわけでオーストラリアのトイレスタイルはいまだに謎につつまれている。帰国までには解明したいと考えている。何かいい話題の展開があれば教えていただきたい。

生きています

最近更新をしていなかったので「死んだという記事が東スポに出ていましたよ」とか「空気を読めるようになったんですね」みたいな失礼な問い合わせをもらったが、残念ながらまだしぶとく生存している。申し訳ない。

理由は色々ある。

  1. 書くネタがなくなった
  2. しばらく忙しくてドタバタしていた
  3. ずっとう○こがもれていてブログの更新どころではななかった
  4. 右腕がちぎれたので再生するのを待っていた
  5. 日本に一時帰国して皇居に裸で乱入していた

などなど。

しかし、とりあえず死んではない。低空飛行ではあるが生きている。

このブログも引き続き更新を続けていくが、「長くて読む気がしない」とか「量が多い」とか「前振りがうざい」とか「無理やりオーストラリアと結び付けてるのが悲しい」とか「話がオヤジっぽくてイヤだ」とか「マンガの話ばっかじゃん」とか色々ご批評をいただいたので、短いものや時事性のあるものも増やしていこうと思う。

別に誰に断る必要があるわけでもないのだが・・・。

現状の報告と今後の方針について相談

もうさすがに限界かなと思っている。私もよく我慢したほうだ。以前の私ならここまで耐えることは出来なかった。もっと早く手を打っていただろう。しかし、いろんな事情や思惑があって、ここまで放置した。ここでやめにすることを決めた。

もちろん、迷いが全くないかといえばそうでもない。本当に私の決断は正しいのだろうかと毎日悩んでいる。ご飯も喉を通らず、夜も眠れない。一つの決断にこれほど悩んだのは生まれて初めてである。

そこで皆さんの意見が欲しいと思った。自分一人で決めれないのかと批判を浴びることは分かっている。弱い人間だという意見は甘んじて受け入れるつもりだ。しかし、それよりも素直に現状について語って、今後の対策について考えたいと思ったのだ。それが素直な気持ちである。

まずは現状をありのままに報告したい。

まず正面から。まだ比較的そのインパクトは少ない。

右側から。徐々にその破壊力が現われてくる。

左側から。耳付近は髪の毛がいろんな方向に向かっていて、統一感が全くない。

後ろから。はっきり言ってこの写真はかなりすごいと思う。自画自賛である。

円を重ねてみると本当に綺麗な円状になっていることが分かる。

そして上から。非常に変な形である。上から頭を見てこんな形になっている人は他にもいるのだろうか(反語。「いや、いない」)。

もうほとんどアフロ田中の域である。もともと田中はいろんな面が似ていると思っていたが、髪の毛も近づいている。

中退アフロ田中 10 (10) (ビッグコミックス)

中退アフロ田中 10 (10) (ビッグコミックス)

最近もらったコメントは下記のようなものだ。
「アフリカン・ジャパニーズなの?」(豪州人)
「一応それも『髪』っていうカテゴリーなのかな?」(日本人)
「私の人生にあなたの髪型は特に関係ないから、別に構わないわ。」(豪州人)
「いいエンターテイメントだと思うよ。」(豪州人)
「非常に興味深い研究対象だ」(日本人)

ただ髪を伸ばしたことで「風に髪がなびくという感覚」や「手で髪をかきあげるという仕草」くらいは出来るようになった。確かに風が吹いても私の髪はほぼ動かないし、かきあげる動作が必要なほと髪も伸びていないのだが、雰囲気がつかめただけでも十分である。これまで出来ないことができるようになったのだ。もう一区切りつけてもいいのではないだろうか。

日常生活上の不便さも出てきそうだ。いかに不審者じゃないかということを説明しても理解してもらえなさそうだ。飛行機に乗るときは何か隠してないかチェックされるかもしれない。

ここまでの長さになったことはなかった。毎日が新記録である。つまり日々新しい自分との出会いである。しばらく前までは明日の自分はどんな自分だろうと思うと、それだけで楽しかった。しかし最近は違う。新しい自分が怖いのだ。やりすぎじゃないかと不安になってくる。もうこの辺りでお別れするのがいいかもしれない。

ここまでの道のりはほぼ4ヶ月。

一方で情もわきつつある。オーストラリアに来てずっと一緒にやってきて、切り捨ててしまうことへの抵抗感もある。

髪の毛という新しいパートナーを見つけた今、私の頭の中をこの歌がリフレインして止まらないのも事実だ。

遠かった 怖かった でも 時に素晴らしい夜もあった
笑顔もあった どうしようもない 風に吹かれて
生きてる今 これでもまだ 悪くはないよね

このビデオを見て歌詞をかみしめていると、やはりもっと一緒にいるべきじゃないかという気持ちにもなってくる。

悩んでいる。このパートナーとの生きる道を。
だから、意見が欲しい。私の今後の進む道について。

私の寿司作り

先日日本でも「Sex and the City」が公開されたらしいが、見た人はいるだろうか。

私はオーストラリアでの公開間もないときに(もう2ヶ月以上前だが)、一人で見に行った。本当はインディ・ジョーンズを見たかったのだが、その日はインディがやってないと言われて、一番上映時間が近い「Sex and the City」を見ることにしたのだ。映画の内容から考えても当然客の大半は女性である。もしくはカップルである。アジアの島国で生まれたおっさんがオーストラリアに来て一人で「Sex and the City」を見ているというのは変態に限りなく近い気がするし、実際思いっきり浮いていたが仕方ない。ストーリーはシンプルなので英語についていけなくてもなんとなく分かる。もちろんこれまでのドラマを見ていなかったし、英語特有の細かいジョークなどはいまいち分からないところがあったのだが、思ったより楽しめたことは間違いない。

その映画の中に日本のものが二つ出てくる。「日清カップヌードル」と「寿司」である。特に寿司の登場の仕方は爆笑物なのだが、この二つがアメリカにいかに浸透しているかが分かって面白い。

オーストラリアでも特に寿司の人気は非常に高い。大きな街であれば"Sushi train"と呼ばれる回転寿司屋は何軒かある。私もなかなか勇気を出して行けていないのだが、ブリスベンにもヤバそうなSushi trainが5軒以上はある。こちらの人はサーモンとせいぜいマグロを除いたら生魚は食べないので、アボカドやツナマヨ、チキンカツなどの巻き寿司が多い。

私も「日本人です」と言うと「アイ ラブ スシ、フー!」と言われて、よく分からないまま「フー!」と言い返していることも多い。まあそれだけ有名だということだ。特にヘルシー志向の若い女性は頻繁に食べている。

そこで先日同居のNZ女性に「あんたも日本人なら寿司の一つくらい作ってよ」と言われたので、生まれて初めて寿司作りにチャレンジしてみた。

ところがやったことがないものだから、何から初めていいか分からない。このNZ人は行動派なので「とりあえず買い物行ってから考えましょ」と言う。しかし普通のスーパーに寿司作りに必要な食材や器具があるとは思えない。

そこでまずやってきたのは海外のアジア人最強の味方「チャイナタウン」である。これほど力強い味方はそうそういない。幸いにもチャイナタウンは私の家の近くにあり、そこにはアジア向け食材が売っているお店もある。餅やカップラーメンなど日本の食材もたくさん置いてある。

まずはそこで米と海苔、酢、しょうゆ、わさび、紅生姜を購入。紅生姜なんかいらんだろ、と思っていたが、NZ人に「これがないと寿司とは言えないわ、あんたそれでも日本人?」と言われ、つい購入。うーむ、彼女にとって紅生姜が美味しいというのは意外だ。

また器具類も必要だ。まきすがないとどうしようもない。さすが寿司作りにチャレンジする人は多いらしく、ちゃんとまきすも置いてある。

作り方がわからないので母親に電話して聞いてみたところ、これだけあればとりあえずなんとかなりそうだ。

続いて普通のスーパーのWoolworthsに行って具となる食材を購入。アボカド、サーモン、ツナ、キューピーのマヨネーズ、チキン、むきエビ、きゅうりを購入。これが購入したもの全部だ。

家に帰ってまずはお米の準備。使ったのはこのお米。

オーストラリア米だと思うが、見た目は結構美味しそうだ。お米をといでいると、そんな何回も必要なのかと言われるが、ここは日本人として「お米は洗わなければならないのだ」と強く主張して認めてもらう。

それを炊飯器に入れる。これは私が日本から持ってきた炊飯器なのだが、実は今回がはじめての使用である。

お米を水を入れ電源を入れてみた。・・・しかし全く動かない・・・。何回チャレンジしてみてもダメだ。どうやら電圧問題が再燃したようだ。今回は前回の反省を踏まえちゃんと電圧変換器具を使っているのだが、安物のためかうまく電気が伝わらず結局使えない。「日本の電化製品は使えないわね」とダメだしを受ける。うっ、使ってるパソコンはTOSHIBAのくせに・・・。

始まって間もないところでいきなり問題勃発。というわけで鍋登場。水とお米の分量はそのままである。鍋でお米を炊いたことはないが、適応に加減見ていけば大丈夫だろう。そこで彼女がもっと水入れた方がいいんじゃない、と指示をしてくる。彼女は「そこまで水を入れたらおかゆだろ」と言うくらいの分量を指示してくる。たぶんお米の水加減に敏感なのはアジア人の特性かもしれない。彼女は「どうせなのだから水なんかどばっと入れちゃいなさいよ。男でしょ」くらいの感覚である。うーむ、米を炊く水の分量に男を見出すとは文化の差を感じる。


BGMも日本風のものが良かろうと中島みゆき「時代」をかけると、「・・・暗いね。もっと踊れる曲ないの?」とダメだしが入った。日本人は踊りながら寿司を作らないことを力説したものの確かに少し暗いので、kaleidoscopioに変えるとテンション上がりだす。寿司には合わん気がするが背に腹は変えられない。


その間に具の準備。スウェーデン男も帰ってきて3人の作業だ。チキンを焼いたり、エビを解凍したり、ツナとマヨネーズと玉ねぎを混ぜ合わせたり、きゅうりやアボカドを切ったり。

そして数分立つとご飯が炊き上がったので、しばらく冷ましたあと、いよいよ海苔と一緒に巻いてみる。最初は「あんた日本人なんだから巻き方教えてよ」と言っていたのだが、私もやり方がわからない。何本か作っているうちに、彼女が段々慣れて上達してきたらしく「この海苔あんまり質が良くないわね」とか「(私に対して)あんたそうじゃないわよ、巻き方下手ね」とかダメだしが入る。

私がエビとチキンを一緒に入れて巻こうとすると二人が「いやいやいや、さすがにその組み合わせはないやろ。タンパク質タンパク質やん」と突っ込んでくる。・・・。日本人の肩書き台無しである。

そんなこんなでいよいよ完成。

ちょっとツナが多目なのは否めないが、初めてにしては綺麗に巻けていると思う。

食べてみると、これがうまい!実に美味しい!

彼らも「今まで食べた寿司で一番美味しい」と言っている。「何回食べたことあんねん!」と突っ込みを入れたくなったが、それはさておき確かに成功と言えるだろう。

思えばダメだしばかり受けてしまったが、とりあえず彼らのおかげで寿司作りには成功した。今回教訓として得たのは「チャイナタウンさえあれば海外生活は平気」「電圧問題は色々なところに立ちはだかる」「外人は日本人より寿司作りがうまい」の3点だ。皆さんも気をつけられたい。

気まずいのは誰か?

私が好んでする話題の一つに「あなたと○○さんは電車に乗ったらどこの駅まで会話持つ?」というものがある。実はこの会話自体がその人と気まずくなったときにしているというメタ構造になっているのだが、誰かと誰かの気まずさ具合を知るのが非常に面白いから、よく聞いている。自分の予想が当たることがほとんどだが、たまに外れることもあってそれも楽しい。「あ、お前と○○は意外と会話もつんや」とか「めっちゃ仲いいと思ってたけど、結構互いに気を使ってるんや」というのが分かると次からその二人の会話を見ているだけで楽しい。

この会話のいいところは、気まずさを測る指標として電車を用いていることである。これが直接的に「○○と何時間会話持つ?」という質問であれば、急に答えるのが難しくなってしまう。30分会話が持つ相手と1時間会話が持つ相手というのは具体的なイメージがわかず区別が難しいからだ。

その点電車ならイメージがわきやすい。

用いられる電車は当たり前だが住んでいるところによって変わる。大学時代は京都にいたので主に阪急(河原町発)か京阪(出町柳発)を使っていた。相手によって阪急と京阪のどちらに慣れ親しんでいるかを見極めて使い分けなければならない(ごくたまにJRを使う必要もあるかもしれない)。また特急を使うか普通を使うかも結構難しいところだ。笑いを狙いにいくなら普通電車が止まる駅を使った方がいい。例えば「○○さんと出町柳から2人で京阪電車に乗りました。どの駅まで会話もつ?」と聞いて「うーん、淀がギリギリやな」と返ってくると、「え、それはなに、K特急中書島乗換え?それとも普通電車で?」などと会話に幅が出るからだ。

私が特に好きだったのは阪急なら西院より河原町寄り、京阪なら七条より出町柳寄りの答えが返ってきて、「まだ地上にも出てへんやん!」と言うことだった。単にこれが言いたいがために、あえて気まずそうな組み合わせを見つけて「お前と○○さんが阪急河原町から電車に乗ったらどこまで会話もつ?」と聞いていたような気がする。「烏丸」と返ってきたら「めっちゃ気まずいな!でも俺も○○さんとは大宮が限界や。地上に出られへん!」と狂喜乱舞である。

関東だと電車が一気に増えてしまい、共通の感覚を持って話せる電車が少なくなる。山手線だとグルグル回ってしまうので長時間のイメージがわかないからかあまり盛り上がらない。やはり直線的に伸びる電車がいい。会社は田園都市線沿いに住んでいる人が多かったので「渋谷から中央林間に向かってどこまでもちますか?」というのをよく聞いていた。「基本三茶が限界だけど、調子よければ用賀までいけます」とか「中央林間まで行って南栗橋まで戻れます」とか。「おー、それは非常に仲がいいですね」など。悪趣味な質問なのは百も承知だが、私が面白いのだから仕方ない。

ただ気まずさの感覚は人によって大きく違うことも多い。私が気まずいと思っていても向こうは全然思っていないというようなこともある。また逆もある。中でも私が一番他人と「気まずい」という認識のズレを感じるのは、「気まずいのは他人だけか?」という問題を考えるときである。

私も世の中には気まずい人がたくさんいるが、一番気まずいのは間違いなく自分である。そう言っても意味の分からない人もいるかもしれない。私と私が気まずいのだ。

なんか自分と向かい合わなければならないというような感覚。自分が自分と対話しなければならないというような感覚。非常に気まずい。

一人で何もすることがないとき、どういうことを感じるだろうか?よく聞くのは「寂しい」とか「暇だ」とかいった感覚である。しかし私が感じるのは「気まずい」という感覚だ。特に一人で考えることもなくボーっとしていると自分との気まずさを感じて仕方ない。だがこれはテレビや本などがあれば当面は解消される。だから私は一人で家でジッとテレビやネットを見ていても平気である。寂しいという感情はほとんどなく、気まずささえ耐えられれば問題ないからだ。大体こちらに来る前の休日はそうやって過ごしてきた。

ところが本やテレビ、ネットなしで過ごさなければならない時間がある。
子供のときに一番嫌だったのはまず風呂だ。まだ身体や髪を洗っているときはいいのだが、湯船につかっているときは自分と気まずくて仕方ない。熱いからではない。気まずすぎて何分もつかっていられないからだ。中学生くらいのときに、ゲームボーイやらマンガやらを持ち込めば気まずくないということに気がつき、それ以降は1時間ほど入っていても問題ない。三国志なんか読み出そうものなら2時間ほど湯船につかっていることもある。

高校のときは自転車の登下校が非常に気まずかった。自転車に乗っているので本を読むこともできないし、お金が大してあるわけでもないのでウォークマンなども持っていなかった。となると見慣れた景色の中を毎日毎日行き来するだけである。帰りは部活の友達と帰るからまだいいが、行きが本当に嫌だった。私は高校まで自転車で15分くらいだったのだが、この15分が毎日驚異的に気まずいのだ。

あと最近気まずかったのは座禅だ。去年の11月に何を思ったか世田谷の龍雲寺というところで数人の友達と座禅にチャレンジした。朝6時半から9時までひたすら座っているだけなのだが、「寒い」「眠い」という天敵のほかにも「気まずい」というのが現れ、本当に辛かった。心を無にしろと言われれば言われるほど、無にならず、自分との気まずさだけが膨らんでいく。何も考えるな、と言われても、何か考えようとしてしまう。にもかかわらず、何も考えるべきテーマの見当たらないので、気まずさ爆発である。誰かといて話題を必死になって探しているときと全く同じ状況なのだ。

そういう私の感覚からするとオーストラリア人の動きは全く理解できない。

こちらでは週末の朝早くからカフェで一人でコーヒーを飲んでいる人がいる。別に新聞を読んだりするわけでもなく、ボーっと一人でコーヒーを飲んでいるのだ。「何がおもろいねん」と思って、知り合いのオーストラリア人に聞いてみたところ「週末お気に入りのカフェでコーヒーを飲みながらゆったり過ごすなんて贅沢で最高じゃないか」と言う。「一人で何を考えんの?」と聞くと「何も考えないよ。何もしないためにカフェにいるんだから」と言う。「なら、家にいろよ」と思うのだが、それとはまたちょっと違うようだ。

似たような発想は日本でも「南の島でも行って何にも考えずのんびりしたいなあ」というような表現で見られる。「わざわざ海外まで行ってのんびりしてどうすんだ、観光地回れ、観光地」と思う。だいたい世界で一番寝れる場所は自分の家なのだ。誰かに会うとかそういう目的があれば別だが、ただ単にのんびりしたけりゃ家から出なければいいのだ。

だいたい私がカフェやら喫茶店やらに行くのは「疲れて休むため」か「誰かと話すため」という二つの目的しか考えられない。つまり「しばし休憩するために飲み物代を払って場所を借りる」という使用方法か「誰かと話をするために飲み物代を払って場所を借りる」という使用方法しか思い浮かばない。「疲れている」または「誰かといる」というのがカフェやら喫茶店やらに行くための必要条件なのだ。

そう考えると「疲れてない」かつ「一人である」という条件下のもと、カフェに行くオーストラリア人の感覚は私には分からない。そんな状況下で新聞や本も持たずカフェに行ってしまうと自分と気まずくて息がつまりそうにならないのだろうか。あるいは意外にもオーストラリア人はほとんど禅を極めているのだろうか。

同級生

岡田准一には勝てない。蒼井優
松坂大輔には勝てない。年棒10億円!
末續慎吾には勝てない。100m:10秒03!
朝青龍には勝てない。本名ドルゴルスレン・ダグワドルジ
マルチナ・ヒンギスには勝てない。16歳で4大大会初制覇!
田臥勇太には勝てない。日本人史上初のNBAプレーヤー!
スティーブン・ジェラードには勝てない。2004-05年 UEFAチャンピオンズリーグMVP!
鈴木桂治には勝てない。アテネオリンピック柔道100kg超級金メダル!
広末涼子には勝てない。MajiでKoiする5秒前
眞鍋かをりには勝てない。トラックバック3000!

Wikipedeiaで岡田君見たら、誕生日が一週間違いだった・・・。

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というわけで他の同級生見てみたら、すごいのがいるわいるわ。書かなかったが「小島よしお」「くまきりあさ美」も同級生だ。いや、彼らだってめちゃくちゃすごい。みんな、人生先々行き過ぎ。