英語に向き不向きはあるか?

人間には何でも向き不向きがある。万能だと思われているかもしれないが、そんな私にも向いていないものはたくさんある。

例えば「洗い物」だ。私はわりと家事をするのは嫌いではないが、食べた後の食器洗いだけは我慢がならなかった。こちらに来る前は一人暮らしをしていたので、食器洗いをしなければならないときは深呼吸を10回くらいして、iPodを装着して録音していたラジオを聞いて気を紛らわし、それでも腰が上がらないので、自分で自分にビンタをして気合をいれ、食器洗い後のすっきりした素晴らしい世界を思い浮かべてやっと開始することが出来たほどだ。私が家で食べるのはたいていインスタントラーメンなど簡単なものなので、いざ食器洗いを始めてみると5分もかからず終わり、思っていたほどのことではないなと思うのだが、やはり次回の食器洗いはしんどい。一人暮らしの時はこれを繰り返していた。本当に私と食器洗いは相性が悪いのだと思う。私と食器洗いの前世はそれぞれ犬と猿だったのかもしれない。

他にも「バレーボール」「ソムリエ」「ジャニーズ」「ファッションモデル」など向いてなさそうなものはたくさんある。自分で言うのも悲しいがジャニーズは入りたいのだが向いていないと言わざるを得ないだろう。私には私の履歴書をジャニーズに送ってくれるような姉や友人がいなかったのでジャニーズ入りを伺うチャンスもなかったのだが、あったとしても入れたかどうかは非常に疑わしい。(関西出身なので名前が堂本だったらまだ可能性があったかもしれない)
味のこともよく分からないのでソムリエも無理だ。本当かどうか知らないがソムリエがワインを表現するのには色調を表現する用語が約20種類、香りを表現する用語が約60種類、味わいを表現する用語が約40種類あるらしい。つまり単純に計算するとワインの表現に対して4万8千通りあるわけだ。私は大好きだった天下一品の各店舗の違いもよく分からなかったくらいの味音痴なので、ソムリエなど絶対になれないだろう。ちなみに天下一品については「銀閣寺店はFCだから薄い。本店と今出川店は直営だから濃い」と強硬に主張する友人がいたが、いまだに理解が出来ない。そもそも天一くらい濃いラーメンにおいて「その中でも更に濃いこと」になぜそこまでこだわるのかがすでに理解できない。

というわけでいろいろ向いてないものがあるが、こちらに来てから英語が向いてないのではないかと思い出した。厳密には英語の中でも話す聞くという行為である。読み書きは受験の知識が手伝って何とかできる。ただ話す聞くが全然出来ない。特に問題なのは「聞く」だ。先天的に耳の構造が私だけおかしいのではないかと思うほどだ。受験の英語は比較的得意だったので知らない単語があるとか文法を分かっていないとかそういう問題ではないと思う。知っている単語で構成された文章なのに聞き取れないのは耳の構造以外にどんな原因がありえるだろうかと小一時間誰かを問い詰めたい気分だ。先日も「my other son」が「前田さん」にしか聞こえず困ったことがあった。一人空耳アワーである。安齋肇がこちらに来たら大喜びに違いない。

言語にはその言語特有の発声方法があるために、日本語に慣れすぎた私には英語用の耳がないのだろう。よっぽど耳が発達した人を除いて日本語環境で育った人はRとLやBとVなどの聞き分けには苦労するだろうが、単純に慣れの問題でいつかは分かるようになるものなのだろうか。非常に不安である。

そういえばスリランカ人に日本の数の数え方を教えていたときに「ひゃく(=百)」と何度教えても彼らは「しゃく」としか発音できなかった経験がある。言語学のバックグラウンドがあるわけではないので、どのように「ひゃく」という発音を教えていいか分からず、何度か「しゃく」「違うよ、ひゃく」「しゃく」「だから、ひゃーくーだって」というやり取りを繰り返してあきらめ「しゃく」「うん、そうだね、合ってる」と言ってしまった(懺悔)。江戸の人は「ひ」が言えないらしいが、同じ原因かもしれない。


話は逸れるようだが、現代社会では医療の持つ力が強く「ある特性について医療が病気であると認定されれば一つの免責理由になりうる」というのを大学の授業で聞いて「なるほどー」と思ったことがある。例えば以前はただ単に「酒好きのだらしないおやじ」と思われていたのが「アルコール依存症」という病気の概念が作られたことによって社会の認識が変わって支援体制が整ったり法整備が進んだりする。同様のことは「うつ病」や「注意欠陥・多動性障害」にも言えるだろう。病気であると認識される前は「本人の努力の問題」で片付けられていた。
また病気だと認定されると種々の社会的免責措置がとられることがある。裁判で精神鑑定の結果責任能力がないと判断されれば無罪になったりするのが典型例だ。他にも「病気」であれば学校を休んでいいが、病気でなければ基本的には学校に行かなければならないなど「病気」の持っている力は大きい。「病気だから仕方がない」と言われれば何も反論が出来ない。もちろん実際はこんなに議論を単純化できるわけではなく「何を『病気』とするか」「病気であれば免責されてもいいのか」などなど非常に難しい問題はあるが、私がこんな話題を持ち出したのはそういう難しいことを考えたいからではない。

英語の発音を聞き取れないというのも私だけがかかっている「病気」ではないかという不安に襲われるからだ。日本人で初めてこの病気にかかったのが私なので、周りは誰も「病気」だとは認識してくれないのではないか。ひょっとして初期のアルコール依存症がそうだったように自助組織を作って社会にこの病気の存在をアピールしていかなくてはならないのだろうか。もしそうなった場合は私が言い出しっぺとして事務局長になるのだろうか。NPO法人格などを取ったほうが事務所をかまえたりする際には有利だろうか。組織の名前はなんとすればよいだろうか。会費制度がいいだろうか。誰か著名人に賛同を求めたほうがよいだろうか。

みたいなことを↓の探偵ナイトスクープの傑作ビデオを見て考えていた。
http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=100184
(ちなみにどう聞こえたかをコメントに書いて教えてください。私にはどうがんばっても1種類にしか聞こえませんでした。詳細はここを上から見えていけば分かります。)